會津うるしぬりガラス器は會津藩主、蒲生氏郷公(天正18年)の時代より伝統ある會津漆器の技法をベースに「和」「洋」どちらでも使えるガラスに素材を求めた新しい感覚の器です。
 
本来、ガラスとうるしは密着が非常に悪かったのですが、それを可能にしました。
長時間水につけておいても大丈夫。使用後の後始末も簡単です。普段使いの食器として、またインテリアやプレゼントにと幅広くお使い頂けると思います。

 
当社の紹介記事産経新聞 平成10年2月9日の紙面より)

 
【記事本文】
会津と長州は宿縁の間柄といえる。会津は戊辰戦争で降伏した後も、明治政府によって下北半島の荒涼たる地へ藩ぐるみ流される悲哀を味わっている。あれから百数十年―。長州人とわかって、タクシーから降ろしたなどという話も伝わってくる。
 
会津漆器は、蒲生氏郷、保科正之ら歴代の藩主の奨励によって特産品となり、”堅牢美麗”で知られる。会津若松市城北町に星田工芸所を構える塗師の星田敏夫さん(五〇)は、長州の萩ガラス(山口県萩市)に漆を塗って新しい漆器を生み出した。
 
 「会津のお年寄には長州にわだかまりもありますが、そんな時代ではありません。新しいものに挑んでいいものを作っていかなければなりません。萩ガラスを素材にした試作品は、まだ満足できるものにはなっていませんが…」
 
昨年十月、会津と長州の物産交流会が会津若松市で開かれた。会津側から星田さん、木地師、蒔絵師ら。長州側から萩ガラスのオーナー、藤田洪太郎さん(五三)らが参加した。星田さんが試しに萩ガラスを漆で塗ってみた。「これは面白い」と藤田さんがとびつき、サンプルを送って“会長合体”が進んでいる。
 
漆はなんにでも塗れる。陶器に塗れば陶胎漆器、編んだ竹なら籃胎漆器、金属なら金胎漆器…。だが、透明なガラスに塗る発想はなかった。「十数年前、店に来たお客さんが嘆くんです。漆器で懐石料理をいただいた後、最後のアイスクリームの器がガラスでは興をそがれる…。ならば、ガラスに塗ってみようと」
 
これが難物だった。漆をガラスに塗って一日水に浸けておくと、漆の膜がそっくり抜け落ちてしまう。精製する漆屋と相談しながら、下準備の段階の“操作”によって画期的な密着法を考案した。また、漆器を作る合間にガラスメーカーを訪ね歩き、漆に合うガラスをさがし求めた。
 
「新潟県の温泉地にガラス工房があると聞いて行ったら、私と同じ変わり者で、“漆を塗る?ガラスを作った人に失礼じゃないか”と怒られて」
塗り方にも試行錯誤を重ねた。漆を刷毛でガラスに塗ると、刷毛ムラができる。そこで、ガラスをロクロに載せ、回しながらスプレーガンで霧状に吹きかける方法をとった。ワイングラスなら、これを回して内側からシューッと黒漆を吹き、乾いた上に朱漆を吹きかける。こうするとグラスの外側は黒、内側は朱色に鮮やかに染まる。
 
「黒漆の量が少ないと、朱漆をかけるとチョコレート色になります。ガラスの半分だけ塗りたいときはテープでマスキングしますが、はがすタイミンッグが難しくて何度もしくじりました。室で乾かすとき落として割ったり…」
 
父の茂雄さんは静岡生まれで、父親に先立たれて母親の実家の会津若松に移り、漆屋で修行した後、戦後塗師になった。「亡くなるまで好奇心がおう盛で、卓上ライターやたばこ入れを塗って輸出してました。プラスチックを素地にした塗り物の特許もとっています。亡くなった兄もフォークやナイフを塗ってました」
 
問屋が木地師、塗師、蒔絵師などを束ねる保守的な会津漆器はは不振をきわめ、倒産や廃業が続いている。ガラス漆器は塗り代が割高という理由で、問屋で扱ってもらえない。進取の気風は親譲りの星田さん。販路を開くために飛び回る。
「多くの人と知り合いになれたのが大きい。萩ガラスの応用として、洋食器や瀬戸物も塗ってみたい。伝統を生かしながら新しい分野を広げていかないと、会津塗は滅びます」
 
日本テレビ系で毎週土曜日放送の「ぶらり途中下車の旅」の取材を受けました
(平成16年9月18日 放映)


  (社内にて 山口良一氏と社員で記念撮影)

店主のコーナー
星田工場長
難しいとされてきた、ガラス製品への漆塗りの技法を独自に開発。ガラスと漆の調和した器の美しさを追及していきます。漆塗りの限界に挑戦!
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